しずく日記

〜ハンドメイド好きな自称ミニマリスト(*^^*)〜

理想と現実

ドラマや映画で考えさせられる事はよくある。

今回も「人魚の眠る家」を観て考えさせられた。

そのテーマは〜脳死

 

亡父がくも膜下出血で倒れ

ほぼ脳死状態で一カ月病院で看病した経験がある。

だから冷静に考えられるところもあった。

父は生前

「自分で自分のことができないなら

 生きていたくない」

そう言っていた。

確かに…自分で何もできない時の辛さは

自分に生きている意味があるのだろうかと

思わずにはいられない。

自分で歩けず、出来た事ができないだけでも

自分の存在価値を見失った事があるだけに

父の気持ちはわかる気がする。

 

〜人の死の基準というものをどう捉えるか〜

 

これはそれぞれ個々の考え方によるから

強制はできない。

そこで脳死判定は臓器移植提供意思がある場合のみ

下記の判断基準で行われる。

 

・深い昏睡にあること

・瞳孔が固定し一定以上開いていること

・刺激に対する脳幹の反射がないこと

・脳波が平坦であること

・自分の力で呼吸ができないこと

以上の5項目を行い、6時間以上経過した後に

同じ一連の検査(2回目)を行い、状態に変化がなく

不可逆的であることの確認をした上で脳死

判定されるという。

 

家族は説明は理解したとしても

心のどこかで奇跡が起こるかもしれないと

極々わずかない希望を持つ。

なぜなら、その希望で崩れそうな心を保つから。

 

以前、子どもと臓器提供意思について

話し合ったことがある。

本人の気持ちと家族の気持ち…

これは話し合っておいても

いざその状況になると一致しなくなると思う。

理想がどれだけ善人であっても

現実として家族の死に向き合った時

周りまでは見られなくなる。

話し合っていなければ本人の意思よりも

家族の想いが強くなるだろう。

 

今の私としては

本人の意思を尊重したいと思っている。

そして自分自身の意思表示としては

50年使ったこの身体が、

もしも誰かの役に立つというなら

最期くらいは誰かの役に立ちたい・・・
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